ふと気付くと、どんな組織にも「職人芸」を持った人がいる。
なぜ、どんな風に、それがどんな意味を持つのか?
そんな問いが封じ込められるのがいわば職人芸ではないだろうか。
職人芸は正義である
人の集まるところには「誰かの苦労」や「大きな失敗」や「達成」や「苦汁」や「禍根」が経緯として積み重なっていくもので、当然、その重みに勝る正義など組織内論理の中からは成立しない。
職人芸はいわば、その経緯の正義を体現する仕事である。
「職人」だけが他の誰かが与り知らない「経緯」を知っていて、その「経緯」には多くの人々の時間や苦労や努力が積み重なっているため、必然的に組織内正義は常に「経緯」の味方に付くことになる。
かくして「職人」の仕事は当人さえも自覚なきまま正義の遂行になってしまうため、「職人」にしかできない仕事が組織の中に生まれ温存され、
「なぜ必要?」「もっと別の方法があるんじゃない?」という問いが封じ込められる構造が生まれるような気がしている。
なぜマニュアルが必要?
詰まるところ、マニュアルは業務改善や効率化といった側面よりも、むしろ組織内正義を中和するためにこそ機能するのではないかと最近考えている。
マニュアルを作る作業は、ひとつひとつの「苦労」や「失敗」や「達成」「苦渋」「禍根」を属人的な「経緯」からときほぐし、組織として中和する作業そのものである。
誰かだけが正しいわけでも、苦労した人だけが正義を語れるわけでもない。
トートロジカルに言えば、組織が組織として正しく成長するためには、「正しさからいかに距離を取るか」についていつも自覚的でなければならない。
マニュアルは責められても、傷つかない。
マニュアルは問われても、禍根を生まない。
それに気付けずにいた頃、
正義を体現せざるを得なかった人が何人も私の目の前から去って行った。
